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からし種一粒ほどの信仰 マタイによる福音書17章14~20節 2025年5月4日 

からし種一粒ほどの信仰 マタイによる福音書17章14~20節 赤塚バプテスト教会礼拝説教(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

聖書―マタイによる福音書17章14~20節
(はじめに)
 礼拝の聖書の話は、このところ、イエス・キリストの十字架と復活の個所からのお話しでしたが、今日から通常の聖書個所から、共に聴いていきたいと思います。今日お読みしたのは、マタイによる福音書17章14節からです。この箇所の前に書かれていることについては、3月にお話ししました。イエスさまが、ご自分の弟子たち三人、ペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネだけを連れて、山に行かれた時のことが書かれていました(1~13節)。そこで弟子たちが見たものは何だったかというと、イエスさまのお姿が彼らの目の前で変わった、ということでした。イエスさまのお顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。まさに神々しい姿であった、ということです。そして、イエスさまは、モーセとエリヤと語り合っていた、ということです。三人が語り合っていたこと、それは、別の福音書によれば、イエスさまのエルサレムにおける最期についての話、つまり、十字架のことでした(ルカ9章31節)。モーセは、律法を象徴する人、エリヤは、預言を象徴する人。そして、イエスさまは、福音。律法と預言というと、私たちにとっては、旧約聖書のことです。そして、福音は、新約聖書のことです。弟子たちが、見た不思議な光景。それは、律法と預言と福音、つまり、聖書の言葉が、イエスさまを通して実現されることを示している、と説明される個所です。そして、この出来事の後、イエスさまは、三人の弟子たちと山から下りてきました。そこでの出来事が、今日書かれている内容です。

(聖書から)
 14節からお読みします。
17:14 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、17:15 言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。17:16 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」
 ここで「一同」というのは、イエスさまと三人の弟子たちのことでしょう。三人が山から下りてきて、群衆のところへ行くと、イエスさまのもとにある人が近寄り、ひざまずいて、このようなことを言いました。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした」。この人の息子は、てんかんで苦しんでいました。そこで、この息子の父親は、イエスさまの弟子たちのところに息子を連れて来て、癒してもらおうとしました。しかし、息子の病は治ることはありませんでした。これは、イエスさまと三人の弟子たちが山にいた時の話です。そこに残っていた弟子たちのところに、父親は息子を連れて来て、癒してくれるように願いましたが、息子は癒されなかったことを、イエスさまに伝えたのでした。
 イエスさまは、この話をお聞きになり、どうされたのかが、続く17節以下に書かれています。
17:17 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」17:18 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。
 イエスさまは、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われました。これは、てんかんの子供を癒すことができなかった弟子たちだけに言われたのではなかったようです。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」とありますが、おそらく、癒すことができなかった弟子たちも含めて、そこにいるみんなに向かって言われたのではないでしょうか。
 もしも、この場面に私たちがいたら、私たちが群衆の一人であったら、このやり取りをどのように受け止めるでしょうか?あの人たちは、イエスさまの弟子なのに、病を癒すこともできないのか?と弟子たちに批判の目を向けるでしょうか?しかし、このイエスさまの言葉、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」。繰り返しますが、癒せなかった弟子たちだけではなく、そこにいた群衆に対しても向けられていたのです。
 私たちが、聖書を読む時も同じです。この言葉を、二千年前の、どこかの国の人たちに向けられた言葉に過ぎないと、他人事のように聞いているなら、いつまで経っても、この言葉は分かりません、理解することはできません。しかし、この言葉が、私に向けられた、自分に語られた言葉として聴いていく時、そこで分かってくる、理解することができる。それが、神さまの言葉です。
 イエスさまは、父親に、息子を自分のところに連れて来るようにと言われました。父親は、息子をイエスさまのところに連れて来ました。その時、どうなったかというと、「イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた」ということです。イエスさまは、何をお叱りになったかというと、ここには「悪霊」とあります。別の福音書には、「汚れた霊」(マルコ9章25節、ルカ9章42節参照)とも書いてあります。イエスさまは、悪霊を、汚れた霊を叱り、追い出したところ、子供は癒された、というのです。これで話は一件落着かというと、そうではありません。今度は、子供を癒せなかった弟子たちの話になります。
17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。
 19節を読みました。弟子たちが、イエスさまにあることを尋ねています。しかも、ここには、「弟子たちはひそかにイエスのところに来て」とあります。「ひそかに」とあることから、おそらく、弟子たちは、周りの誰にも分からないように、気づかれないように、そっとイエスさまに尋ねたのでしょう。弟子たちの気持ちがよく表されている場面です。自分たちは、癒すことができなかった。そのことを恥じていたのでしょうか。自分たちの無力さ、足りなさにがっかりしていたのでしょうか。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と、ささやくような小さな声で、力のない声で、イエスさまに尋ねたのではないでしょうか。
 私たちも、自分の無力さ、足りなさなどに直面させられた時、本当にがっかりします。自分自身にがっかりしてしまう、失望してしまいます。ああ、何と自分はダメな人間なのだ・・・とすっかり落ち込んでしまいます。この弟子たちの気持ちはよく分かるのではないでしょうか。イエスさまは、弟子たちにこのように言われました。
17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
 まず、イエスさまは、こう言われました。「信仰が薄いからだ」。信仰が薄い。別の訳では、「信〔頼〕が少ないため」(岩波訳)、「信仰が小さいせい」(田川訳)とありました。信仰が薄い、信仰が少ない、信仰が小さい。これは、信仰があるかないか分からない、という意味だそうです。弟子たちはこれを聞いて、心が打ちのめされるような思いになったのではないでしょうか。というのは、弟子たちは、自分たちはそれなりの信仰があると思っていたのではないでしょうか。今まで、自分たちは、イエスさまに従ってきた。イエスさまのためにあれをしてきたし、これもしてきた・・・。ところが、そういう自分たちのことを、主は、信仰が薄い、と言われたのです。
 イエスさまは、続いて、このように言われました。「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」。からし種というのは、とても小さいものです。その一粒というのは、米粒よりも小さなものです。イエスさまは、その小さな小さなからし種一粒ほどの信仰があればよい、と言われたのです。

(むすび)
 「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば」。このイエスさまの言葉から、今日の説教題は、「からし種一粒ほどの信仰」と付けました。ここで信仰ということを考えてみたいと思います。私たちは、神さまの前に立つ時、自分の信仰を誇ることはできません。なぜなら、そもそも信仰とは、神さまが私たちに与えてくださったものだからです。それなのに、私たちは、自分の信心深さ、自分の行いを誇ってしまうことがあります。自分が強くあろう、大きくなろうとすることが信仰ではないのです。
「信仰」という言葉は、先ほど、紹介した別の訳の聖書の言葉では、「信頼」と訳されていましたように、信仰は、信頼とも訳すことができる言葉です。神さまを信頼する。私たちは、いついかなる時でも神さまを信頼することができるでしょうか?事が順調に進んでいる時は、神さまを信頼することができるかもしれません。ああ、神さまは私を愛しておられるのだ。神さま、感謝します、ありがとうございます!と喜んで言うことができるかもしれません。しかし、何か試練に遭うと、信頼も何もできなくなってしまう。どうして、私はこんな目に遭わなければならないのか?神さまは私を愛しているのだろうか?不安、疑い、迷い、恐れに支配され、信仰どころではなくなってしまう。すると、私たちの信仰というものは、からし種一粒ほどもないことが分かります。
弟子たちは、自分たちはあの子供を癒せなかった・・・。そういう自分に失望し、がっかりしていました。イエスさまからは、信仰が薄いから癒せなかったのだ、と言われてしまいました。でも、そこからが、本当の信仰の始まり、本当の信仰の出発なのです。「そうです、主よ、あなたが言う通り、自分には信仰があると思っていたけれども、信仰も何もありません」。そう言わざるを得ないような弟子たちでした。けれども、そういう弟子たちに主は呼びかけられました。からし種一粒ほどの信仰でいいから、私のもとに来なさい。私を信頼して、私と共に歩もうではないか。その呼びかけを受けて、この方に従っていこう、この方についていってみよう。自分の無力さ、足りなさ、弱さに気づいた時、向き合えた時、そこから信仰は始まるのです。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 主の弟子たちのもとに、子供の癒しを求めてやって来た父親でしたが、弟子たちは子供を癒すことができませんでした。弟子たちは、自分たちには、癒す力もなく、信仰もないという現実を突きつけられ、自分自身に失望してしまいました。そういう彼らに、主は、「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と語られました。
 信仰とは、主を信頼し、主のもとに行くことです。私たちの信仰は、本当に小さなものかもしれませんが、主は、そういう私たちを受け止めてくださり、共に歩んでくださって、みわざをなさいます。どうぞ、今日から始まる新しい日々も主が私たちを導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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